あの結婚式から数日が経った。 私は軍に再入隊するための健康診断に来ていた。 女医に呼ばれ、何か見つかったかと不安に思えば。 女医は一言。 「おめでとうございます、一か月ですね」 私は目を見開いた。 honey pink 「ただいまー」 「・・・・・・」 ヴュンシェはばたばたと廊下を歩いて、 学校指定の鞄をソファーに放った。 が、いつもと違う事に気づく。 まず母は帰ればすぐに『おかえり』と声をかけるし、 ソファーに鞄を放ったら 『部屋に持って上がりなさい』と少し怒る。 が・・今日はそれがない。 彼は不思議に思って、キッチンを覗けば 母はぼんやりとカレーの煮立つ鍋を掻きまわしていた。 完全に意識が明後日の方向にいってるみたいだった。 「・・かあさん?」 「・・え・・・あ、おかえり」 母ははっと顔を上げて、彼の方を向いた。 彼は怪訝そうな顔をしながら冷蔵庫を開けた。 冷えたオレンジジュースを取り出す。 「なにかあったの?」 「・・なにって・・・?」 「今日、軍の健康診断だったんでしょ・・?変な病気とか・・」 「・・・別に・・変なとこは・・なかった」 「ふーん・・じゃあ、なんか言われたの?」 「ううん・・別に・・・」 そう言いながら母はまた思考の海へおちていく。 お玉だけを規則的にグルグルかき混ぜながら。 「・・・かあさん」 「・・・なに・・?」 「カレー、焦げるよ」 「・・・そう・・・・・え・・あ」 やっと意識が浮上したらしく、ぐつぐつ煮えるカレーの火を止めた。 ヴュンシェは母に違和感を覚えながらも キッチンから出ていった。 一ヶ月。つまりは一ヶ月前。 多分・・・あの記念館の事件のあった夜・・。 涙した私を彼は掻き抱いた。 二人で苦しみを埋め会うように。 何度も何度も。 ふわりとフラッシュバックする脳内。 暑い部屋、彼の匂い。 ・・・私・・・顔が熱い・・・。 ・・もう三十になるのに・・・。 何度も何度もパプリカを切っている手が止まる。 一ヶ月・・まだ・・・微妙な・・時だけど やっぱり言った方がいいの・・? でも・・・私は軍の復帰は・・どうなるのだろうか。 彼の立場は大丈夫なのだろうか・・・。 やっぱり・・ ヴュンシェの時みたいに3ヵ月目まで働いて・・。 でも、健康診断で妊娠してることはわかってしまってるし・・。 普通の職なら5か月は働けても・・・ナイトメアに乗るような 危険な仕事じゃ・・・。 「っつ・・・!!」 ふと見れば人指し指にぷくりと浮き出てくる血の玉。 深くは切っていない。 指を切ってしまうなんて久しぶり。 蛇口から水を出して、洗う。 綺麗なシンクには私の顔がぼんやり映っていた。 なんだか少し疲れているような顔。 ・・実はヴュンシェも彼も気づいていないが、 少し体調が優れない(多分つわりだけど) はぁ、と一つ溜息をついて絆創膏を取ろうと振り返れば。 「何?怪我したの?」 私より遥かに大きい身体が後ろにあった。 「・・・帰ってたの?」 「んー、ただいまーって言ったけど返事なかったから」 「ごめん・・ぼんやり・・・してた」 彼は制服のまま棚から救急箱を取り出すと、 私を椅子に座らせた。 「・・これくらい自分で手当できる」 「あ、アーニャ照れてるんだな!もっと旦那さんに甘えなさいって!」 「・・・自分でやった方が早い」 「可愛くないねー。可愛いけど」 「・・どっち」 「どっちでしょう?」 「・・・・もういい、面倒」 こんなやり取りをもう十年以上してるから慣れてしまった。 彼は軽口を叩きながら、消毒して絆創膏を巻いていく。 「はい、できあがり!」 「・・・ありがとう」 「どういたしまして」 彼はにこにこ笑って、私の頭を撫でると、鞄を持って自室へ行った。 昔から彼は私の頭を撫でるのがくせになってるみたい。 私は彼の熱が少しだけ残った指先を見つめた。 そして、そのまま夕食の準備に再び取りかかった。 スプーンが止まる。 皿の上の茄子の入ったカレーは半分以上残っている。 勿論私はこれが嫌いというわけではない。 「・・・ごちそうさま」 「へ!?アーニャ、全然食べてないじゃないか」 「いいの、私、食べたくない。  ・・ヴュンシェ、おかわりは?」 「・・いるけど・・母さん、今日なんか変じゃない?」 「・・別に。ちょっと体調が優れないだけ」 「・・やっぱり母さん、今日の健康診断で何か言われたの?」 「・・だから・・何も言われてない」 「アーニャ?・・そうなのか?」 二人とも心配そうに私を見つめてくる。 同じ顔が二つも並べば、ある意味迫力もアップ。 「・・だから・・・違う・・。  本当に・・少し体調が優れないだけ・・。  ちょっと横になるから」 そう言って、私は寝室へ行った。 もう二人は何も言わなかった。 『アールストレイム卿?』 『何』 『・・顔色がすぐれませんが』 『大丈夫。それより敵戦力の分析は?』 『済んでます。先にヴァインベルグ卿が前線へ』 『わかった。私も出る』 『はっ』 知っている、これは夢だ。 過去の自分の姿だ。 そう。そしてこれはあの宣告を受けた直後の私だ。 吐き気と頭痛に苦しまされていたあの頃の。 医務室の女医は私に複雑そうな顔で 『おめでとう』 そう言ったのを覚えている。 ・・・あの時既に全面戦争は始まっていた。 こちら側にも被害が出ていた。 私は・・・重要な戦力だった。 ・・・戦線を離脱するわけにはいかなかった。 かといっておろす勇気もなかった。 人は簡単に殺せるのに、 自分の子供は殺せないという私の人間らしさに皮肉を感じ、笑った。 私は乗っている。 苦痛と吐き気に堪えながら、あの赤の機体に。 油断して、攻撃を喰らった。 でも気付いてしまう。 機体にダメージを喰らうと、 気づいたら操縦幹の握る片手を離して、 お腹を庇っている自分に。 確かあの時だった。 生き抜いて 彼と一緒に生き抜いて 君を生んであげるから そう約束した日は。 真っ暗い闇の中で一筋の涙が零れた。 気づけば泣いていたらしい。 ごしごしと目尻を擦った。 こんな夢を見たのは初めてだった。 同時にやっと気づく。 私はやっぱり命を生み出すことに怯えているんだ、って。 怯えているのに。 でも、会いたいとそう思っている。 誰かの大切な命を奪っても 自分の大切な命を生み出そうと、本能的に思ってるって。 眠ったせいか少し楽になった。 寝室の時計は0時前だった。 もうヴュンシェは床についている頃。 階段を降りていけば、居間にはあかりが灯っていた。 扉を開ければ、 彼は眠気覚ましのブランデーを飲みながら、 書類を片付けているようだった。 「ん?あ、起きた?体調は?」 「・・・少し・・・まし」 「そうか。ここ、座れば?」 「・・・うん」 ソファーに座る彼の隣に座った。 彼は私が座ると同時に立ち上がって。 「コーヒー?紅茶?」 「・・・紅茶」 「わかった」 紅茶を淹れてくれているようだった。 キッチンのテーブルをちらりと見れば片付いていた。 「・・あ・・」 「え、なに?」 「・・片付けてくれた・・?」 「うん。洗い物もやっておいたけど・・」 「・・ごめん・・疲れてるのに・・ありがと・・・」 「いや、アーニャが体調悪いのにそんなことさせれないでしょうが」 アールグレイの匂いがした。 なぜだろう・・心地よい。 「ブランデーは?」 「・・・いらない」 「・・珍しいな。いつも入れるのに」 彼はアールグレイの入ったカップを私に手渡した。 私は、ありがとう、と言って受け取る。 ブランデーを入れなかったのは、 お酒は・・身体に悪いと思ったから。 彼は私の隣に座って、また書類を書きだした。 家の居間で書くくらいなので重要書類というわけではないようだ。 私は紅茶を一口飲んだ。 あったかい。中からあったかくなる。 視線はふとお腹にいった。 私が口に入れたものは全部君にもいくんだね。 君にもこの温かさが伝わればいいんだけど。 おいしいものもたくさん食べようね。 外に出てきても おいしいものいっぱい作ってあげる。 楽しいものを一緒に見よう。 それは例えば君のお父さんやお兄さんの笑顔かもしれないね。 美しい音楽を一緒に聞こう。 それは例えば町はずれの時計台の六時の鐘の音かもしれないね。 いい匂いもかいでみようよ。 それは例えば、庭に咲く一輪も薔薇の匂いかもしれないね。 素敵なものに触れてみようよ。 それは例えば太陽の午後の光をいっぱい浴びたシーツの柔らかさかもしれないね。 きっとそれは太陽のあったかさも君に教えてくれるよ。 「・・・アーニャ、眠いの?」 ふと大きな肩にもたれたらそう言われた。 私はなんだか少しおかしくて、 ちょっとだけ笑って首をふった。 彼は不思議そうな顔を見せて、 書類と向き直った。 きみはどうなるのかな? おとこのこ? それともおんなのこ? できたらおんなのこがいいな。 おとうさんはきっとすごくよろこぶよ。 きみはかれとおなじきんぱつ? それともわたしとおなじももいろのくせげかな? もしそうだったらていれ、てつだってあげる。 くせげってとてもめんどうなの。 ひとみはあお?それともあか? できればヴュンシェがあかだから きみはかれみたいなあおがいいな。 ふかいふかいうみのいろ。 ひろいひろいそらのいろ。 あかでもいいよ、もちろん。 あついあついたいようのいろね。 きみをまってるよ、あととつき。 きみをしあわせにしてあげれるよ、 きっときっと。 だから、きみもわたしたちをしあわせにしてほしいの。 だから、まずわたしのとなりにすわってるかれに しあわせをわけてあげてもいい? もうわたしたちはふうふだから。 ・・だからきっとどんなつらいことがあっても のりこえていけるよね。 いままでも・・そしてこれからも。 だからいまはかれのえがおがみたいの。 がんばれるちからになるでしょ? 「・・ジノ・・」 「うん?何?」 紅茶のカップを置いて、 私はゆっくりと彼の右腕に抱きついた。 彼は少しおどろいて。 同時にペンを置いた。 「どうしたのー?何、積極的だな?  ああ、なるほど。もう大人の時間だもんな。  ちょっと待ってて。これ終わったらベッド行こうな?  かーわいがってあーげる!」 「・・・ばか、違う」 「えええええええ」 彼は残念そうに、唸った後 私を見つめた。 不思議そうに。 だって、私滅多にこんなことしないから。 あとそれから暫く我慢だから、それは。 幸せには我慢も必要だから。 ゆっくりと彼の右手を取って、 そのまま私のお腹に近づけた。 彼はその動きを不思議そうに見ていた。 大きな掌の体温の布越しに感じる。 君にも伝わればいいのに。 「・・・お腹も痛いの、アーニャ?  やっぱりさ、病院行く?」 彼は酷く鈍感だ。酷く、酷く。 心配そうに右手が私の肩を抱いて、 左手が右手の代わりに私のお腹を擦る。 「・・・・ほんとは」 「・・・?」 「健康診断・・・言われた。  多分・・・復帰は延期」 次の瞬間彼の顔色は一気に変わった。 顔つきは一気に厳しくなった。 「・・・・なんでそれを早く言わないんだよ!!!  何・・・・・・何の・・病気だよ・・・  俺・・・にも・・・言えないような・・・ひどい病気・・なのか・・・?」 彼は不安そうに、肩を抱く力を強めた。 蒼い瞳が怯えている。 きっと私を失うんじゃないかって、 酷い想像をしてるんでしょ? ごめんね。 少しだけ意地悪したかっただけ。 でも、私、まだ嘘は一つも言ってないよ。 病気とも言ってない。 「・・・病気、かもしれない」 「・・・アーニャ」 「皆が凄く幸せになれる病気」 彼は目を見開いて、きょとんと私を見た。 大きな掌は私のお腹にあてられたまま。 私は笑った。 だって、今、酷い顔、なんだもの、ジノ。 そんな顔久しぶりに見た。 ねぇ 「・・こんどはおんなのこだったらいいね」 次の瞬間、その蒼色が更に見開かれた。 「・・・・・・ホントの、話?」 「・・・ほんとの話」 「嘘じゃない?」 「・・こんな嘘言わない」 「・・・・・妊娠、してるの・・?」 「・・・四週目・・・だけど」 彼の反応に 少し不安になってきて 恐る恐る彼を見つめれば、 次の瞬間信じられない力で抱きしめられた。 「ほんと!?」 「だから・・・ほんと・・って・・・ちょ・・っといたい・・」 「ああああああ・・ちょっと待って、嬉しくておかしくなりそう!!!!」 「いたいって・・ばっ!・・あとうるさい」 「ああああ、アーニャ、すき!愛してる!!!!!」 「わかったから、離して!いたいっ!」 笑顔で、すごい力で抱きしめる彼を とりあえず必死に退けた。 彼は腕を解いて、必死に彼の胸を押して彼を退かせた私の肩を 大きな掌で掴んで、そのまま何度も口付けた。 舌を絡めながら、ちょっとブランデーの味が気になったが まぁいいかと目を瞑った。 はやくおいで せかいはきみをかんげいしているよ みんなみんなきっとあいしてくれるよ 私は女の子だったらと願いをこめて買ってきた ハニーピンク色をした育児日記用の 日記帳の最初の一ページを綴った。