(吉原から帰って数日後くらいで) 何気ない日常に 一ミリの 愛愁ロジック ただ、なんとなくで。 理由なんて特にない。 というのは嘘で髪飾りを探すのがめんどくさいだけ。 髪を下ろしたまま、櫛を入れた。 昔、誕生日に兄ちゃんに貰ったもの。 ウサギのマークとお花が二つ。 可愛くて大事にしてる。今でも今でも。 あの馬鹿はきっとこれをあげたことすら忘れてるだろうけど。 でも、なぜか懐かしくて。 指先が髪を結っていく。 いつもは絶対にしない髪型。 おさげが一つ。 鏡を見れば過ったのは、 蒼いふたつの瞳が見つめてる。 記憶によぎるのはあの雨の日。 「馬鹿みたいアル」 それでも髪をほどこうとはしない指先に 釈然としない苛立ちと劣等感を感じた。 雀が鳴いてる。 まだ朝早い。 銀ちゃんはまだ寝てる。 いつもの服を着た。 けれども鏡をみて、脱ぎ棄てた。 『神楽』 鏡の中に映る姿は やはり面影があったのだ。 タンスから、着物を引っ張り出した。 姉御のお古の着物。 まだ一度しか着たことがなかった。 けれども着方は覚えていた。 結ったおさげを垂らして、 紅い着物を着て、鏡の前に立つ。 もう鏡の中には、アイツはいなかった。 息苦しさを感じて、 外に出た。 朝の空気がすがすがしい。 まだ朝早い。 すれ違う人はほとんどいない。 けれども誰も差さない傘を私だけが差してる。 こんなに晴れてるのに。 こんなに晴れてるから。 紅い鼻緒の下駄。 足袋。 まるで私じゃないみたいで。 人間になれた。 この傘さえなければ。 下駄を鳴らして、 いつもの橋まで来た。 水面に映る人は知らない女の人。 でも結われたおさげが揺れるたびに 反響するのは、あの声。 優しいテノール、甘いテノール。 優しい嘘、残酷な笑顔。 「・・・に・・ぃ・・ちゃ・・ん」 もう、そうは呼ばないと決めたのに。 わかってる。わかってる。 もう昔のアイツじゃないって。 わかってるわかってるわかってる。 戦うことしか、誰かを殺すことしか考えてないっていうのも分かってる。 それでもそれでも。 それでも神威という男は私と血が繋がった、 私のたった一人の兄なのだ。 ひとすじ、涙がこぼれた。 もう泣かないと決めたのに。 もっと強くなりたいって。 力も、心も、 誰かを守るために、 強く強くなりたいって・・・ 強く強くありたいって・・・ 涙が溢れてきて、 拭うために手を翳した時に 肩に何かが触れて、 後ろに振り向かされた。 「チャイナ?」 絶対会いたくなんてなかった、こいつだけは。 私はすぐにその手を振り払った。 泣き顔なんて見られたくなかった。 走り去りたかった。 でも、はき慣れない下駄のせいで。 強い力で肩を持たれた。 「離すネ!」 「どうしたんでィ?お前が泣くなんて珍しい。  川に酢昆布でも落としたかィ?」 「うっさいネ!お前に関係ないアル!」 「あー、おまわりさんのハートを傷つけた罪で逮捕」 「ふざけんなヨ!この汚職警官!税金泥棒!」 逃げたいのだ。この男から。 今は会いたくなかった。 だって、私が、この男につっかかってしまう理由を 私はどこかで理解してたんだ。 似てるって、面影が。 無意味に顔だけいいとことか サドなとことか たまに優しいとことか もうやめて もうやめて 泣きたくなる 思い出したくなる 頭撫でてもらったこと 櫛を貰ったこと 誕生日のケーキを一緒に吹き消したこと 手を繋いで公園から帰ったこと アイツがパピーの手を奪ったあの日のこと 全部全部溢れてく。 全部全部。 涙が止まらない。 強くなんてなれてない。 「・・・どうした?」 「・・お願いアル、もうほっといて欲しいネ」 涙を流して俯く私に 少し困ったように頭を掻いて。 「いつもと違うカッコして、いつもと違う髪型して  いつもと違うふうに泣いてたら、俺だって心配するんでィ」 制服のポケットに無造作にいれられたハンカチを 目元に押し付けられた。 「腫れるぞ」 「うっさいネ」 どうしていいのかわからなかったのか 大きな掌が頭にふわりと触れた。 「泣きたきゃ泣けばいい。  話したくなかったら話さなくていい」 会いたくなかったのだ。 本当は怖かったのだ。 お前があまりにもアイツに似てる気がして。 お前もアイツみたいになっちゃうんじゃないかって。 思ってたことが頭の中で言葉になった瞬間に なんともならなくなって。 ぐちゃぐちゃになって、爆発して。 「う・・わぁぁああん!」 「ちょ、お、オイ!?チャイナ」 思わずその胸にすがりついていた。 鼻腔に広がる優しい匂いに アイツとは違うんだって確信する。 大きな掌がもう一度私の頭を撫でて 嗚咽する背中を撫ぜる。 「・・す、こんぶ・・っ・・落とした・・・ネ・・っ」 「・・・・・・・・」 「二十箱くらい・・・落とした・・ネ・・っ!」 「・・馬鹿野郎。お前に二十箱も買える金があるはずねぇだろィ。  嘘つくならもうちょっと現実味のある嘘で終わっとけ。  あと隊服に鼻水つけたらお前切腹な」 「ずびばぜ・・ん・・・!ここに・・・セクハラ・・警官いるアル・・っ!  ヘルスミー・・っ!」 口喧嘩はいつもと同じなのに どうしてこんなに優しい空気なのだろうか。 ふらりと落ちた手を私はどうして握ってしまったのだろうか。 「オイ・・・サド・・っ」 「何でィ」 「お前は・・・絶対笑うなヨ」 「・・?」 「お前は」 「笑いながら人を殺せるような人間になるなヨ」 私はそれだけ呟いて、 サドの胸板を押した。 これ以上失態が見られたくなくて、 そのまま走り去ろうとした。 けれども、ハンカチを押しつけられて。 「洗濯してアイロンかけて返しに来な」 そう言われて。 「うっさいね!サド菌がうつるアル!」 思わずそう言ってしまったけど。 「あ、あと」 耳元に唇が寄ったので 何か大切なことでも言われるのかと 思ったけれど。 せっかく可愛い格好してんでィ。 笑いやがれ、馬鹿。 そのハンカチ返す時は、その格好で来いよ。 ちゃんと笑えたら、酢昆布くらい奢ってやらァ。 ひらひらと手をふられて。 後ろ姿が見えた時には 私はただただ涙に濡れた両頬を押さえてた。 真っ赤になったそれを。 思い出してしまったのだ。 泣き顔が見られたくなかったもう一つの理由。 私はアイツに惚れてたのだ。 指先からぽとりと落ちたハンカチが 風に揺れて飛ばされかけるまで 私はただただ赤い頬を押さえてた。